ミュージカルデビュー4周年をお祝いいたします! 

  26, 2014 07:50



ザミュージカルインタビューより




ミュージカルという舞台に立つまで

-ミュージカルを始めた時の話からしてみますね。 一番最初に、初めての作品<モーツァルト!>の練習室に行った時の気持ち、覚えてますか?

(上気した声で)あ、はい、覚えてます。 本当にブルブル震えました。練習の初日'私は私は音楽'の楽譜をさっと渡しながら音楽監督様がピアノをひいて下さるが、わ~正直私がアイドルだけれども歌はある程度自信があるんですよね。だけれどもその歌を歌った時はこれ何?って思ったんですよ。コードが歌謡と完全に違います。 その上リーヴァイ先生の曲が本当にクラシックでしょう。 不協和音も本当に多くて。 '自由~祝祭~輝く宮殿~'この歌を初めて聞いた時は、"これ不協してるけれども?これ合ってるんですか?"と言いました。ところがわざわざそんなふうに書かれたとのことですね。 (ずっと口ずさんで) 'ロウソクの炎は風に消え、どれほど残酷な人生、 意味もない世の中なのか。'今は慣れてこのように自然に出てくることだけども、初めには...今もう一度考えると<モーツァルト!>はあまりに荷が重かった。 (笑)


-<モーツァルト!>音楽が本当に難しいことは難しいんですよね。

本当にお話にもならないほど難しいです。 'どうやったら影失って!'この歌はとても高くて。 とにかく初日二時間音楽練習をしてメンタルが崩壊した状態に出てきたところ、シンヨンスクヌナが'黄金星'を歌っていますよ。 その次にはジョンソナヌナが、その次にはミンヨンギヒョンが、皆マイクを蹴飛ばすように歌を歌うのですが、その瞬間隠れたかったです。 本当にできない、と思いましたよ。 申し訳ないができないといいました。 ところがやり遂げなければならないというんですよ。 どうしたらいいでしょう。 肝を据えて今これをしなければ、ここで私が折れてしまうんだいう考えで練習しましたよ。


-ミュージカルは初めてといっても、俳優たちとプロ対プロで会うことじゃないの。 それでできなくてはいけないという負担が大きかったことのようです。練習室で完成してない姿を見せなければならないということも負担になったようですね。

はい。 初めにはマネジャーのケアなしでそんなに人多い所にいなければならないというのがちょっと大変でした。 デビュー後には知らない人々とひとつの空間にいることが殆どなかったんですよ。 飲食店にも行かなかったから。 特にその時は(前所属社問題で)1年ほど活動を休んでいたのではないですか。 人々が私をどう思うだろうかという心配で、誰かに会うこと自体が恐ろしかった時なのでさらに大変でした。 アイドル出身がミュージカル主役を演じるのをどう思うだろうか。 私がここの人々とよく融和されることができるだろうか。 そのような恐れがありましたよ。 幸い皆非常によくしてくださいました。

-ジュンス氏がたとえ間違ったといっても何という人はないでしょう。 ところでそれがある時はちょっと恐ろしくないですか? 無条件な好意を受けるのです。

私なのでより良く見られたということは分かります。 多分技術的にはたくさん不足したでしょう。 それでも一つ自信を持って話せるのは、最小限作品にどっぷり浸かって生きたという点です。 私の状況とよく合致したから。 'なぜ私を愛してくれないのですか'は、本当に私の心がそうだったんです。 世の中に向かって叫びたかった話でした。 舞台でもそのシーンでは毎度泣き叫びました。 毎日涙鼻水みんな流しながら。

-それでキム・ジュンスの<モーツァルト!>を見た人が最もたくさんした話が'真正性'だったのではないでしょうか。

運良く私とよく合う作品に出会ったようです。 キャラクターを頭で理解しなくても良かったから。 ところで<モーツァルト!>初めての公演は本当に忘れられないです。 特にカーテンコール時のその拍手の声. 今まで数多くの舞台に立って拍手を受けてみたけれど、そのようなじーんとするようなことは初めて感じました。 カーテンコール拍手は私が表現した人物がある程度説得力あったという観客の返事のようだといったらいいのか。 本当に心がいっぱいになります。




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生まれて初めてキム・ジュンスという名前でひとりステージの上に立ったその日
モーツァルトは私とあなたをまた再び出会わせてくれました。

高い城壁を越えて新しい世の中に向かって
飛び立つキム・ジュンスの姿をいつも黙々と私の挑戦に拍手と愛を送ってくださるあなたがたの姿を
ずっと心に閉まっておきます。

そしてありがとうという言葉ではすべて表現できなくて
この舞台の上でその愛に恥ずかしくない私になるための今日も努力します。


いまシャチャルトという名前が
ぎこちなくないこの瞬間たちをこれからもずっと覚えておきたいです。

私が彼に似ていき
みなさんが私の心を感じる今日
私は幸せです。

ありがとう。。みんな





初演プログラムブックより



あなたを演技して歌って少なくともあなたの心を理解して感じることができるということに私は本当に幸せです。「天才的な音楽性ゆえに、自由を夢見て、ロマンを追求するモーツァルト!音楽に対する自負心と自信感、愛に対する溢れんばかりの情熱が、人々からの猜疑心や嫉妬を呼び起こすことになる。天才がゆえに幸福で、天才がゆえに不幸だった 僕のモーツァルト!」ーキム・ジュンス




運命的な出会いの日を心より感謝して~

以前とっておいたピファニアレビューそのままご紹介できずにほとんど毎回のレビューがあるんですけど
そこから2番目と3、10,11を訳して紹介します。
また機会があれば他の回もできたらと思います~







[2]1月28日シア・ジュンスのミュージカル モーツァルト!:"あぁ! モーツァルト!" 2010-01-30、Saturday


1

* シア・ジュンスのミュージカル モーツァルト! 出演記事が出てくる2ヶ月くらい前から、私が突然モーツァルトにはまっていました。 近年に入って器楽音楽にひかれて聞いているところに、一歩遅れてモーツァルトに会うのです。 何、難しい過程を経るからでもなく、'この頃には演奏音楽が良いね。 それではクラシックも一度聞いてみるだろうか'とモーツァルトをプレーさせたが、'あ、いいんですよね..'声がひとりでに出てきたことです。 私は音楽を広くリスニングよりは、垂直的に深く聞くスタイルだと、'あ、良いんだけど。..'というとても良いのです。 それで彼の音楽をちょうど聞き始めたところでした。 知人たちに会うたびに、その楽しみを話していました。 このミュージカル記事が浮かび上がって、彼らが腹をかかえて笑ったのです。 東方神起の日本ツアー観覧を終わらせてへとへとになっては、'もう、東方神起の音楽は少し休んで聞かなければならない'といったところですね。

* ところで事実シア・ジュンスのこのプロジェクトとモーツァルトの相関関係はあまりないと思いました。 特に私にはそうすると思いました。 シルベスター・リーヴァイのこのミュージカル作品にモーツァルトが作曲した音楽はほとんど出てきません。 何秒挿入曲らだけがあるだけでしょう。 そして前演劇的な感動によく動く人が全くありません。 演劇は絶対に見なくて、ミュージカルはただ'音楽'を聞くためにだけ行きます。 なので、この作品を見る前にモーツァルトに関して特にさらに考えたり、この作品のためにモーツァルトの話をすることになることとは全く-少しも考えたことがありません。

* ただ、シア・ジュンスのブルース ボーカルが、ロックとクラッシックという要素が融合したこのミュージカルに会って、どんな方法の自分の個性を表出するのか、ヨーロッパでの解釈とどのように違った自身の音楽的結果を見せるのかにだけ関心がありました。 今でもこの作品を眺める私どものこの主要な観点が変わることとは全く思いません。

*ところで、シア・ジュンスがモーツァルトで分解舞台に立った二番目公演が終わった木曜日夜、おかしなことが起こってしまいました。




2

*公演を見て家で来る道、私の頭の中にはすべてモーツァルトに対する懐かしさと憐憫がゆれていたことです。 私はまだモーツァルト作品の面々も正しく知らない粗雑なファンだが本来初心者ファンたちの愛情が最も濃いのがきまりですから。 そのように偉大な音楽を作り出した天才をひどく困らせたたくさんの事柄と多くの人々、それにもかかわらず、色々な苦痛の中でも彼が周辺の人々にいつも見せた暖かい人柄、愛情、関心... 彼がすべての愛する人にいつも忘れないで送った千度のキス、バカな冗談、便の話(モーツァルトは便の話を非常に好んだそうです),人生に対する楽観と社会に対する驚くべき直観、死と人生に送った謙虚だが偉大だった視線が今一度浮び上がって頭の中をいっぱい満たしました。 そして家にくるやいなやモーツァルトの音楽を聞いてしまいましたね。

*そして時間が過ぎて、ふと考えると私が今日世宗(セジョン)文化会館でシア・ジュンスの歌を聞いてきたという考え自体が別に入らないという事実を悟りました。 シア・ジュンスは言うまでもなく、今時代で私が最も惜しんで高く評価するボーカリストのうちの1人です。 その人の舞台を故障出ないマイクと、安定した音響と、他にないほどの立派に傾聴するファンたちと共に観覧しました。 それは韓国では最初で、彼のソロ舞台を基準とするならば、そのまま最初です。 今までそんなことはなかったです。 世の中で,この経験を薄くさせることができることは、私には何もありません。 ところが、ところでそれが薄いのです。


3

*ユーチューブ動画でヨーロッパ バージョンをさっとあらかじめ見た時には、私はこの作品のキャラクター設定がそんなに気に入ってはいないです。 モーツァルトは'分別がなくて軽薄な青年'で、コンスタンチェは'放蕩で怠ける女'で描くのに偏ったような印象でした。 これは1985年作映画アマデウスでも登場した設定でしょう。 真剣なモーツァルト研究者はこのような設定が実際とは大いに違うという点を指摘します。 だが、歴史的人物の実状はいつも歪曲されたり、故意に劇化される方法で大衆はあらましそうだろうとします。 とにかく大衆は'分別がないモーツァルト'が好きです。

*ところが'モーツァルトファン'の私は、このような設定が不満だったんですよ。 モーツァルトが属した時代は、人類歴史上最も偉大な時代中の一つです。 人類が中世の暗黒を越えて啓蒙主義に足を踏んで、フランス革命を基点に'人権と平等'という価値に目を開くことになるこの上なく重要な時期です。 それこそ当代ヨーロッパのすべての良心的、進歩的知性が一ケ所力を集めて中世の闇を追い出すために奮闘しました。 そしてそこにモーツァルトもいました。 彼は'進歩'が美しいことを、'平等'が大切なことを音楽を通じて大衆に'実演'したのです。 当時革命的な作品ですでに名高かったボーマルシェの戯曲をモーツァルトは直接選択したしそれが'フィガロの結婚'です。 貴族としても私の女を触ればそっとしておかないという召使いの宣言より、さらに革命的な宣言がどこにいますか。 彼は'天才的才能'によって引きずられて行った分別がない若者でなく、自ら自身の運命を決めて人類の進歩を心より念願した偉大なヒューマニストでした。

* 両親の死が深い傷を残したが、彼はこれを克服したし着実に成功を成し遂げて行きました。 彼が生を終えるこの前には、作品が大きい成功を収めて、彼の最高全盛期が始まったばかりになろうとしていたところでした。 仕事が終えられれば、音楽家が愛されて贅沢な暮らし受ける国、彼が尊敬してはばからない音楽家ハイドンが待つ英国に行く約束もなっていました。 悪妻論が入り乱れていたりしたが、彼は死ぬ日までコンスタンチェを愛したし、コンスタンチェまた、彼の着実な伴侶になりました。 私が短いけれど接した歴史的事実がこのようだから,このミュージカルが実際のモーツァルトをどれくらい表わすことが出来るかに対しては大きい期待感を持っていませんでした。

* ところで舞台で直接がミュージカルを観覧したらユーチューブであらまし見たこととは多少違った感じです。 依然としていぶかしくて残念な部分はあります。 お父さんレオポルトの重さは過度に大きく扱われたし、コンスタンチェと彼女の姉妹があたかも市場通り飲み屋で仕事をする女たちのように描かれた等等がそうです。 短く処理されたフランス革命の部分とモーツァルトの死の部分はあたかも未完成一緒に感じられます。 最後まで繰り返されるお父さんと姉ナンネールの家族の話の代わりに、そのような部分をもう少し生かしたならばという気もします。 そうだけれど、この作品はのことですよ。 とても重要な何か捕捉やり遂げるのは成功したのではないのかと思います。

* モーツァルト音楽の感じと通じるどんな要素-直接的で愛らしくて鮮明で単純でやさしいながらも挑戦的な感性がこの劇の音楽全体を通じてかすかに感じられると話です。 そして200余年が過ぎた今でも、私たち音楽ファンををこのようにジーンとさせるモーツァルト人生の切ない純粋性もまた、どんな方法ででも表わした感じです。 その表わした方式が、とても眩しかったりとても賢かったりとても偉大な方式ではありません。 やぼったいです。 ところでそのやぼったいさがこのミュージカルが正直に表出するという事実が良いのです。 事実本当に偉大な音楽はやぼったいです。 '僕を捕まえてみろ~'という、バカな人間と人間が会えてはねて出てくる'生きた感じ'こそ私たちが持つ最も自然な感情ですから。 自らそのようないたずらをしながらうれしがったし、同時にそのようなバカな人間をこれ以上ないくらい愛らしいという視線で眺めたひとり-すなわちそのような音楽家がモーツァルトでしたから。


4

* でも結局シア・ジュンスが途方もなく演技が上手だったという話でしょう。 そうですね。 公演が始まる前に、このような考えはしました。 シア・ジュンスは演技をできないでしょうが、かえって演技を一つもできないので、この人がそのまま'モーツァルトになってしまうこと(?)'をするかも知れませんって。 演技のテクニックを習う前に、そのままモーツァルトに感情移入をしてしまうんです。 '私はモーツァルト'と。 それはなぜかシア・ジュンスが上手にすると思いました。 歌う時にも、該当曲が要求する感情移入だけは本当に完ぺきなほどやり遂げた人だったからだよ。 完ぺきなほどやり遂げるというのはとても冷たい話で、シア・ジュンスはそのままその感情を実際に感じながら歌いましたね。 彼の音楽を聴いてきた人々ならば誰でもその事実をわかります。 それならミュージカル モーツァルト!という巨大な分量- 2時間20分曲にもそのまま感情を移入してしまわないかと思う考えは聞きましたが。

*ところが今私は何も別に評価をしたくはないです。私は、自分の方式の感動をこの劇で受けました。 それはこの劇の完成度とは別個かも知れないです。 初心者モーツァルトファンであり'モーツァルト'字だけ見ても感動しているのかも分からないです。 だが、どんな理由で感じたことでも、'感動'は分析や談論より1億倍ぐらいさらに重要な価値を持っていると考えます。 それこそ音楽が成し遂げようと思う本来の目標ですからね. だから本当に久しぶりに感じた劇公演の感動を今その場はそのまま置いておきたいです。

*そして1月28日、シア・ジュンスのミュージカル モーツァルト! 公演を見た私は、シア・ジュンスを見ることができなくて帰ってきました。 代わりに、200余年前オーストリア、ザルツブルクで黄金星を探して出発した少年、そして地球ができて以来、最もまぶしい黄金星をつかんで人類の心に抱かせたその少年を心の中に入れてきました。 全く予期できなかったことだと真に当惑したがどうしますか。 事実であるのだから。

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[3]2月2日シア・ジュンスのミュージカル モーツァルト!:面白くなった調整期間2010-02-03、Wednesday


*今日はちょっと突然軽い気持ちで上げてみましょうか。
(12時を渡して掲示文日は2月3日になったが、便宜上2月2日を今日でします)

*今日は、かまいません。 シア・ジュンスだけ熱心に聞いて見ました。 モーツァルトに対する感情で遠くなったのは去る28であるだけであったのに、それが当然です。 前回にも話したが私は初めから劇公演に対しては本当に鈍いことこの上ない人間です。 我が国最高の俳優が途方もない演技力に公演するミュージカルも、'歌聞きに'行って、歌だけ聞いてきます。 とりわけ反復観覧は絶対的に歌のためにだけします。 事実28日私の個人が劇的に熱い感動を感じたとすれば、ちょっと間を置いてて、また行くことが常識でより有効でしょう。 だが、私は音楽を、その変奏を聞きに行く人ですから。 今日も多くの観客に感動的な公演だったことだと考えます。 今日お父さんの死では、本当に客席あちこちで激しいほど、しくしく泣く音がしましたね。 それ位の熱演でした。

*ところでのことですよ。 これは逆に考えれば去る28日公演が途方もなかったということです。 ミュージカル舞台経験がやっと2回目である新人が作ることができる舞台ではありませんでした。

*技術的に問い詰めれば、今日は精巧さを加えるために、シア・ジュンス個人が努力する跡がたくさんあらわれました。 発音は二日目から良くなり始めたが、今日は、その滑稽な'はやく言うこと'パートさえも、速度を調整して正確度を改善してしまいましたよ。

*前別に意に介しませんが(意に介さない程度でなくティクションをために彼が持つ自然な呼吸やリズムがそっと不自然になるのを別に歓迎しないですがもう正反合を経れば最も良い結果が出てくるでしょう),'客観的な意味での発展'のために、彼が当然試みてみなければならない部分でしょう。

*歌は1,2回目と違うように歌いました。 このような表現を私が使う時、注意されるべきことは-実際には別に違わないというものです。 以前に私どもが東方神起日本ツアー観覧ありったけの力を込める時、一度申し上げたことがありますか? 公演を何度も見れば見るほど、しきりに観客は微細な差に集中する傾向があります。 ところでこのようなことは、公演を初めて観覧する観客には別に気にならない場合が大半です。 さらに'上手にした'とか'できなかった'という話も、相対的には微細な差であるだけです。 もちろん基本的に力量が足りなかったりコンディションに大きく左右受ける俳優もあるでしょう。 ところでシア・ジュンスの場合には、すでに'高い基準'を突きつけて話をしなければならないようです。 歌は初めっから最も高い基準として眺めていて。 単純な基準として言ってみれば1,2,3公演を全部立派に大きい失敗なしに、感動的におもしろく上手でした。 そのためにこのような話を継続するのはつまらないから、とても難しい基準としてあれこれの差を見るものです。

*また戻って、歌が1,2回目と違います。 ところで私が考えるには1,2回がちょっと異常な公演ではなかったのかしたいです。 それを何というべきか。 シア・ジュンスが自身に隠された何か動員した会だったことでしょう。 製作者があるインタービューで話すのを、シア・ジュンスは初めての公演直前風邪ひいたといいます。 その上にミュージカル俳優としては初めての舞台であったから、彼は製作スタッフが与えたのではない、'自身が持つ何か'を取り出して使ったことでないのかと思います。 1,2回の歌は、閲兵にかかって精神が混迷している状態で、自分も分からないままで、最善を尽くして歌う歌のような感じといわなければなりませんか。 'むやみに歌う感じ'というか。 歌のうまくない人がこのようにすれば'事故'ですね。 ところで天性の歌の資質を持つ人がこれをすれば、非常に珍しいながらも面白くなった結果が出ます。 それが先週でなかったのかと思います。私はそれを非常に楽しみました。

*事実言ってみれば、1回公演、恐らく緊張のためだった'普段より多少荒い低音'も私はとてもよく聞きました。 それがその有名なシア・ジュンス初期時期、'諦め'の低音ではないですか。 すごい低音ですね。 荒いだけに振幅が広いが、それが好みに合わない観客もいるだろうが、私は反対です。 その音を、どんな理由でも、2時間20分間余り(厳密に話せばその中のきわめて一部だけで聞くことができましたよ)聞くことができて良いですよ。 その声が次の公演で繰り返されるのはしないのかと思いました。 ところで本当に2回公演の時にはその声が消えたのです.

*今日のシア・ジュンスは、もう気をしっかりもって考え始めたバージョンの俳優だったといいましょうか。 彼が一番最初に整えたのは発音であったのに、先立って話したように前発音自らの改善には全く意に介さないが、その発音改善をするのに、曲らのテンポが変わったそうです。 そのテンポを処理する手並みには本当に感心しました。 '私は私は音楽'と'便にまみれた豚の尻尾'でそうしましたよ。 一区切り一区切りするのに拍子が押されたが、その押された拍子をスイング感あるように処理して後からつかみ出す手並みは、十分にリズムを持って生まれたボーカリストでなければ感じることができないことでした。

*先週公演の問題は、いや問題でないですね、珍しい点はこれでした。 失敗が殆どなかったです。 それ本当に話ならないものです。ミュージカルの長い間の愛好家である一行と共にいろいろ話をして、私たち皆は-ミュージカル俳優で舞台に初めて立ちながら、このように大きい大劇の主役を引き受けて、その数多くの動線とセリフ、歌の歌詞で表示私は大きい失敗が一度も出てこなかったということだけでも起立拍手しなければならないことだと口をそろえました。 物理的に本当に珍しいことでしょう。

*今日公演で、三,四回セリフ大使と歌詞でどもる部分があったが、それを見ながらがはじめて'申告式は払ったんだな'という感じがしたのです。

*発音の改善と曲テンポの一部変化とともに、音域帯および力の調整も成り立ちました。裏声で処理した部分何部分が地声に変わったが、その部分でなくとも微細に-いや、かなりわかるように力の調整が成り立ちました。 今日歌った地声の表現も良いが、先週の裏声の表現も良かったです。 この人の変奏を私が最も楽しむ理由は、色々な道を選択できるボーカリストという点のためでしょう。 それは多分彼が変奏的ジャンルであるブルース的基本技を生まれつきの性格的に持つ歌手であるためでしょう。 力の調整は'小さい部分'でも成り立ちました。 対話中出てくる、小さい曲の小さいけれど重要な部分を非常によく歌いあげていました。 それで今日'聞く人'としてまとめて持たなければならないシア・ジュンスの歌の部分が概略5,6部分がもっと増えました。

*そしてです。
なぜか分からないが、モーツァルトが年齢をちょっと取りました。 先週のモーツァルトは。 閲兵にかかった赤ん坊あるいは子供のようなイメージのモーツァルトだったが、今日のモーツァルトはかなり成長していました。 青少年ぐらいなるというとしましょうか。 お父さんに答える、大主教と戦うどんな部分で、今日のモーツァルトは'ちょっと年を取ったよ'という気がしました。 多分、シア・ジュンスが'より理性的にキャラクターに接近するモード'で切り替えるからでしょうか。

* おもしろい比較質問時間:28日公演と今日公演中に、どんな公演が良いかといって誰が尋ねるならば-前格別気迷いなしに28日公演だと答えるでしょう。 だが、二つの公演中に、もう一度見ることができるならば、何を見るかと尋ねるならば、今日の公演を選択します。 それは、私が'音楽の人'なので、今日のシア・ジュンス音楽の'調整過程'を見守ることは本当におもしろかったためです。

*そうだけれど、シア・ジュンスの音楽に対する話はまだまともに開始もできませんでしたね。 何、まだ日はたくさん残ったからです
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*そうだ、先週には何曲かの非常に感情的に熱くなる絶頂の部分で'強く歪んだ部分'がありました。 たとえば'なぜ私を愛してくれないのですか'がそうしましたよ。 その音で打って上がることができなくて、ゆがんだ声を出しましたね。 ところで今日その部分で全部まともな音をつかみ出しました。 私はさらに、これも二つのバージョンがみな良いですね。 確かに、私はこの人ボーカルの熱烈なファンなのです...とで説明すれば気楽だが考え直してみると、それのためというよりはこのようです。 そのゆがんだ声がモーツァルトが置かれた行き止まりのような状況を凄惨に表わしたといいましょうか。

*小さい部分の改善事項に追加しようとするなら-お父さんを見送り、彼がコンスタンチェの懐の中で泣き叫ぶ'混乱'部分は先週には、歌だったとの事実も分からなかった程に'話'に近くしたが、今日、そのまた、歌だったとの事実を知りました。 ところが話でも歌でもこの部分は本当に聞く人さえ苦痛にさせますね。

*今日のコロレド大主教はミン・ヨンギでした。 ところでこの俳優がユン・ヒョンニョルとは声がかなり異なりますね。 声にバイブレーションがさらに多くて、旋律的動きも豊富です。 特徴の一部はシア・ジュンスと重なります。 それで初めからそれぞれ違う特質を持ったのでかえって絶妙に似合って入ったユン・ヒョンニョル、シア・ジュンス組合とは違って、二人の声は今対峙状態を成し遂げるところだが、これが今後どのように出会っていくかが期待されます。 一方がとても少しだけドライに応対してもおもしろいそうだが、どちら側がそのようにしましょうか。 気になります。

*どうせ脚注を使い始めたのでこれも書きましょう。 継続される兆しが見えたとすれば、'公式推薦フレーズ'で指定したかった程でもものすごく美しかった一節があります。 すぐに'私は私は音楽'の前の部分でした。 多くの方々がすでに好むその歌詞の部分です。

私は長調私は短調、私は和音私はメロディ、私の単語私の文章、私の感じ私のリズム音楽の中に
私は拍子私は休符、私はハーモニー私はフォルテ、私はピアノ、ダンスとファンタジー私は私は、、私は音楽~

シア・ジュンスがこれを各ライン別に違うように呼びました。 初めての列をそのままプレーンに、二番目列は滑らかに(ア! まるで金箔をばらまいたシルクのような音色でね),3番目に列は再びプレーンに、そして四番目、'私はフォルト'を強く(それもそのまま直線的力を集中するのではなくバイブレーションを強くしながらその感嘆の声でフォルトの感じを生かします)して段々とやわらかくなります。 初日この表現を聞いて-これがほとんど公演が開始して出て2番目曲とか初めから精神が戸惑ったが、二日目はより一層美しく表現したのです。 ところで今日は、シア・ジュンスが発音を整理するのに、そのまま歌いました。 これもまた今後どうなるのか、気になります。 再びそんなに呼んでくれるならば良いが、1,2回公演の伝説で残るものも悪くありませんよ。

*始めたついでに、大きい話も少しします。 '私の運命から逃れたい'のその決定的部分を、シア・ジュンスは裏声で処理しているが、これ表面で表情に出そうがしなくても、多くの人々が残念がっているようです。 そういえば'私の運命から逃れたい'というこのミュージカルの'まさにその曲(it song)'であり、該当の部分は、'まさにその部分'ですから。 私の個人的に失望したかすれば、理由があるんですか。 私この人のボーカル ファンですが(今日,この話たくさんしますね)(ところでミュージカルという分野自体があまりにもマルチ音楽ジャンルの混合物なので何か意見を出すには私が属したギルドを明確にする必要があったりします). この人のボーカル ファンということは、私がテナー式音色は好まないという話でしょう。 ロックでも、そんなにハイトーンで抜けていくシャウトは、私が聞くのに命かけるフレーズではありません。 それよりは、シア・ジュンスと'私の運命避けたくて'の音域が違ったので、彼が技術的にどのように処理するのか気になるだけでした。 ひとまず彼は裏声を選びましたよ。 今はのどの状態がベストではないようだから(ところでこうしたのは、長期公演をするミュージカル俳優には一度や二度ではないことです),もう少しパワフルな試みを彼がしてみるかも知れないとは考えます。 だがしないと言って残念なことは大きくありません。 何故かですか? シア・ジュンスが新しい絶頂部を多数作り出したからです。 ところがやはりその話は後回しにするのがより良いでしょうね。 非常に長いです。

*再び短いお話一つ. 今日公演(昨日ですね-今は3日昼間です) '私の運命から逃れたい'が終わって、場内に火がついて、'ア~'といっせいに感嘆の声がしました。 1,2日目はそのような声までは出なかったのに話です。 シア・ジュンスが確実に何か別に呼んでは違ったようで、観客の手変わる現象が起きたでしょうか。 公演終盤の涙ぐむ現象も深刻だったものを考えれば、'感情派観客の日'であったかも。









[10]13日3時シア・ジュンスのミュージカル モーツァルト! -2010-02-14、Sunday


*2月13日、なので旧正月前日、世宗(セジョン)文化会館で開かれたシア・ジュンスのミュージカル モーツァルト!の10回目公演は観覧はしましたが- '目覚めた(?) 精神'では観覧をできませんでした。 前日違睡眠を一睡も出来ない状態だったということが決定的です。 事実はそれ以前の日も別に眠れないことだし疲労というよりは、'ぼーっとしたかんじ'はより一層加重されていました。

*どんな状態だったのかすれば、'豆腐モード'でした。 頭の中が軟弱な豆腐のように成っていて、お父さんが登場すれば、'ア~、お父さん来られました'と心の中で挨拶して(普段にはしません!) そのまま眺めます。 さらにパルトゥシュテンテン男爵夫人が、幼いモーツァルトに歌を歌う初めての場面でも'そのとおりですよ、その子供は哀れだとのことです'と涙があふれそうになる(前演劇やミュージカル観覧する時に、なかなか泣かない'冷血的観客'です。 だから感動して泣いたのでなく、単に正しい考えではなかったことです),あらゆることにあらまし頭コクリとうなずいて、オーバーで反応する市場にいるおばさんモードになっていました。

*それでこの日初めての公演がどうだったのか、率直に話せばよく分かりません。 見た方々、どうだったんですか? 本当に豆腐のような頭の中をひっかき散らして考えれば、初めての公演はやはりマチネ公演(昼間公演)の公式により、物静かで安定した公演だったようです。 初めてソ・ポムソクお父さんからそのようなサインを送っていました。 豆腐モードで'今日のお父さんはやさしいね'と考えた程度ですからね. そういえばシア・ジュンスは連続3回公演で、ソ・ポムソクをはじめとする多くの俳優は週末4回連続公演ですから。 また、シア・ジュンスが前日12日の公演が暴走モードだったために、安定した方向に行くのが、当然な道理で当然の結果でしょう。

*シア・ジュンスは、12日から、一番最初の曲'真っ赤なジャケット'を歌う時、'お金の世界へ出発しよう'という部分をお父さんの声をまねて歌います。。 お父さんがそんなにおっしゃることだと話す部分ですから。 観覧したミュージカルがわずかばかりな私は、チョ・スンウが老人(ドンキホーテ)演技をした'マンオブラ マンチャ'がすぐに思い出したのです。 チョ・スンウの演技はほとんど劇全体で続くので、彼はタイトル曲'成し遂げることはできない夢'もちょっと年を召したバージョンで歌います。 彼の演技と歌はあまりにも立派だったですが'歌を聞きに'行く私としてはこれが途方もない不満だったんですね。ちょっと話がそれましたね。 とにかく、シア・ジュンスのお父さん演技、'声帯模写式'で少しの間してしまうから、何もそのような心配はなくてとてもおもしろかったです。 事実'お金の世界へ出発だ!'本来表現は、シア・ジュンスが非常に力強く歌うところなのに、そこでシア・ジュンスの子供の声で高々とあがるので、少し'ウン?'という感じはありました。 ところで変わった今は、とても自然です。

*演技のディテール部分中で、また目を引く変化はまさに'笑い'部分です。 シア・ジュンスは泣く部分はかえって初回から非常によく消化したが、'笑い'部分は事実全部ぎこちなかったんですよ。 笑いの終わり相当部分で、偽、あるいは作られた笑い声だというのがあらわれました。 ところで一つ二つ変わると、今は90%以上がみな本当に生き生きした笑い声に変わりました。 それは本当にパズルのピースを合わせて行くように、毎回毎回少しずつ結局にはほとんどみな変わっていったんですよ。 自身によってでも、他の人によってでも、非常に繊細なモニタリングが成り立っているという気がしました。

*′真っ赤なジャケット'を歌いながら、去る水曜日ただ一度試みたR&Bアドリブ バージョンはその後で再び出てこないです。 'それでは私も共に~'小節の終わりの部分でした。 ところでどうなっているのか私はずっとモリッの中で、そのアドリブを付け加えて聞いています。 あ、その'シア・ジュンス大突撃'の10日水曜日公演は本当にレアバージョンの総集合体だったようですね。

*別の話をたくさんするついでに、ウェーバー家の話(ウェーバー家の描写は実際のウェーバー家とは本当に違います-ヨジェパとアロイジは本当に当代のプリマドンナでしたから-しかし作家はこれがウェーバー家の本質だと考えたところでしょう-私はそうではないと心より考えるが-事実本数冊読んでみたのが全部の私に何をどれくらいもっとわかることができるでしょうか? 私がそんなに信じる理由は、ただモーツァルトの後期オペラに出てくる女性たちがあまりにも躍動感あふれて愛らしいためです。 そのような素敵な女性像を描き出すのは、明らかに彼の妻とその姉妹が影響を及ぼしていないのではないか考えるだけです-作家が疑惑を置くそのような面がなかったわけではないでしょう。-そうだとしても、コンスタンチェは9年の間6人の子供たちを産んでその中4人を失ったが、とにかく乳飲み子を育てる期間まで合わせれば、彼女はずっと妊娠-出産-乳飲み子育児の連続してきたのに、この作品の描写は多分ドイツ系作家が根強く彼女に持っていた偏見の一端を継承した感じがするといいます). 私はウェーバー家が好きです。 ブルース ファンですから... ウェーバー家が作り出すブルージーな雰囲気が好きなんです。 モーツァルトを招請して迎える時、ブルージーに歌ってモーツァルトが登場しながら、クラッシックな音楽で雰囲気を変えて偽善を'震えます'そして同化されたモーツァルトも、突然他のスタイルで歌を歌います。 私たちの読者方々中一人が、'コンスタンチェ化粧しろ'という声に、コンスタンチェが'なぜですか?'と答えるのが好きだといいましたが、私も好きです! そして、'救世主を待ちます'でこの家族女たちがアンサンブルを成し遂げる時その声も非常に良いです。

特に'便にまみれた豚の尻尾'に登場する、その流浪劇団コンセプト! そのコンセプトは、私がこの作品全体をあわせて最も好むイメージです。 それはあたかもサーカス団に捕えられたピノキオのようで、また、詐欺師に奪われたハックルベリー・フィンとトムソーヤのようで、また狂ったティーパーティーに参加したアリスの姿のような感じだといいましょうか。 妹さんはシア・ジュンスの舞台登場と退場は概して見守るが、この場面ではウェーバー夫人の幻想的な衣装と演技と語り口に魂が抜けていて、'ペルリシモ!'と叫ぶシア・ジュンスの声を聞いて、'このシーンでシア・ジュンスが登場する場面をまたのがしたよ'と考えます。 '豆腐'になったこの日初めての公演では、最初からシア・ジュンスが歌を歌う時にも、コンスタンチェとウェーバー夫人の'ショー'を見ていたが、本当におもしろいです。 ウェーバー夫人がコンスタンチェにモーツァルトを誘惑しろとそそのかして、コンスタンチェが誘惑をするが、毎度無駄足を踏むものです。 ところでここでコンスタンチェが仮面をかぶったまま、モーツァルトと踊りをある動作踊るシーンがあるが、いつかこの場面でモーツァルトがコンスタンチェにキスしなかったんですか? とにかくこの場面良いです。 '流浪劇団とモーツァルト'という名前の外伝でもできたら良いと考えます。

*′ママの死'シーンでモーツァルトが、'オンマ!'と何回も呼びます。 今回の会では、再びいくつもの部分でトーンダウンが成り立ったが、この部分もその中の一つです。 以前には、日常から衝撃で感情的緊急性を高めていくべきである場面という負担感のためなのか、'オンマ'と初めて呼ぶ時からその声にはいっぱい緊張した響きと演技の感じがありましたよ。 ところでこれが変わりました。 初めてママ!とで呼ぶ時には、'オ、ママどうしたの?'程度で軽い語調です。 やはりはるかに自然です。 このような部分がいくつもっとあったのです。

*この日公演でも、また特異なバージョンの'便にまみれた豚の尻尾'で登場。 私が毎度このように話すが、私どものすべての話がそのように、事実大きい変化ではありません。 とても微妙な音色とリズムの変化です。 ところで本当にこの部分に関して、この人はとてもよくやり遂げます。 '先生'でいらっしゃいます。 この日初回公演では導入部の音色をとてもひっぱるようにして変えて歌ったんです。

*′私はウィーンに残る' 13日のアドリブは、'ウンチたれ'を二度したのです。 すなわち、'ウンチたれ!ウンチたれめ!'このようにです。 やはりそのリアルな語り口ですよね。 この部分は私には本当にずっと難題です。 それで12日には、モーツァルトが'私の運命から逃れたくてで苦悩するのは、大主教に侮辱されて私の追われたためでなく、そのすべてのくびきに縛られた自身の運命に対するすさまじい苦闘だと考えました。 ところで今は私は大主教とアルコ伯爵とモーツァルトが三人のの友人と見えます。 なぜか親しく見えるという話です。 歌う時の対決的エネルギーはずっと、あるいはさらにきっ抗すると、格別関係はないです。 そしてこういう小さい'笑劇'は聴衆に途方もなく大きい面白味を抱かれてあげることが事実です。 今は聴衆が'その部分'をいっぱい期待するという事実まで皮膚で感じられると話です。



*公演が終わって与えられた約一時間のターム. 世宗(セジョン)文化会館裏道を歩きました。 雪は止みましたが天気はうらさびしかったです。 名節を一日前にしたせいであるからか、行き来する人々もあまりありませんでした。 今や、'かなり、見たんじゃないかな'という感じがしました。 そういえば、全体公演の半分が過ぎたしソウル公演はいつのまにか最後の1週だけを残しておいていますね。 多くの考えが頭をかすめました。 その考えを後にして、再び公演会場へ向かいました。











[11番目]13日7時シア・ジュンスのミュージカル モーツァルト! -私たちはいつも彼に2010-02-15、Monday


*12日公演でシア・ジュンスは今や'多層的な表現'をし始めるといったが、13日の夕方公演はその応用編のようになります。 事実昼間公演でも何か成り立ったかも知れないが、私のほうの問題で識別することができない可能性も大きいです。

*1部では、私がとてもとても恋しい'子供モーツァルト'が登場します。 ところでそのまま登場するのではなく、シア・ジュンスとともに登場します。 何の話かといいますと 私もよく分からないです。 ただそうだということです。 あえて説明をしてみようとするなら今や'幼いモーツァルト'とか、'成熟したモーツァルト'とか、'シア・ジュンス'とかする単一なキャラクターではシア・ジュンスが作り出すキャラクターを表現することはできないといいましょうか。 2~3個ぐらいの構図や力学が重なっている感じです。 自然な変化かも分かりません。

* 3回連続公演に入ったシア・ジュンスには、やっとちょっとだけ疲れた様子が感じられました。 ただ、この人は疲れれば、'力が抜けた'バージョンの歌と演技を見せるのでなく、その反対になります。 さらに力を入れます。 ところでその過程で自身が飛び出してくるものです。 このようになれば、それとなくシア・ジュンスが'疲れる瞬間'を望むことになる、悪い姿勢を持つ聴衆も出てくるかも知れません(私は違います。! 絶対!)。

*ママの死からすぐに続く'どれくらい残忍な世の中なのか'導入部でシア・ジュンスが'え~ん'と泣き声を出します。 それが本来なかったことなのに加え、とても本当に泣いている声なので、びっくりしました。

*箒のシーンでシア・ジュンスがコンスタンチェに速射砲式漫談を降り注げば、コンスタンチェは大声を張り上げます。 "やめて! 何の話かわからない!"ですって。 ところでこの日はシア・ジュンスがすぐ"僕も実はよく分からない"と答えるアドリブをします。 本来は何も言わない場面でしょう。 大主教との'便'アドリブでもところが、ここではより一層'自然人シア・ジュンス'の登場です。 ところでその自然人の程度がこの場面では本当に極に達したんですね。 本当に笑わせましたよ。 そういえば'シア・ジュンス大激突'モードを越えた、'シア・ジュンス自然人'モードがこの日かなり現れたもようですね。

*2部に入って、'子供モーツァルト'は消えて、'おとなモーツァルト'が登場します。 ところで区分が曖昧です。 なぜなら,このおとなモーツァルトは、子供モーツァルトを排除しなかった、瞬間瞬間子供のようなおとなモーツァルトだったといいましょうか? やはり何の話なのか私もよく分からないです(これそれとなく良いのですが。 俳優様に一手習いました).

*曲はその回毎に、シア・ジュンスのものになっていきます。前回'どれくらい残忍な人生なのか'をシア・ジュンスが立派に再編したといいましたよ。 ところで今度は、私がやはり少しぬるく考えたこのミュージカルの2個のナンバーのうち残りの一つの'なぞなぞ'もシア・ジュンス式再編を終えます。 事実この2曲が嫌いではないですが(良い曲らだと考えます),単にジャンル的に引かれないんです。 ポップ的なメロディがメインである曲たちですから。 私どものようなロック/ブルースファンたちは本能的に押し黙っているのです。 それで本当にこの2曲に関してはシア・ジュンスに大きい期待をしました。 ほとんど依存的な期待でしょう。 '今この状態では私が聞く歌ではないが、聴けるくらいにしてください。'というくらいの期待といいますか。 それは以前にも話したようにシア・ジュンスが、ほとんど'ジャンル移転的水準のブルース的原形性'を持っているためです。 たとえば彼が以前にN ’Syncポップダンス ナンバーであるPopを歌ったときにそうでしたね。 コミカルに歌ったのに、彼はジャンルを変えてしまいました。 以後単独コンサートで歌ったブルーのAll Riseもそうでした。 彼は'ソウル風ポップダンス ナンバー'をソウルに変えてしまいます。 とにかくそして,この2曲は完全にシア・ジュンスに任せたが、彼が完ぺきに変えました。 今は2曲ともとても好きになってしまいました。 ところで多分これが私どもにだけ起きる現象ではないでしょう。

*シア・ジュンス式再編を終えたことはその2曲だけではありません。 まず後半部、'涙3連作'の'なぜ私を愛してくれないのですか'と'ステファン大聖堂'. 'モーツァルト居間'もリメイクが終わりましたよ。 韓国的叙情性と切なさに。 彼が持つ分離的で破裂的な形態の声動力を絶頂部にのせて途方もなく聞く人を打つ曲になりました。 初期にはしなかったが、中後半部に入った今、客席は連日涙の海を成し遂げます。

*何回目から徐々にそうしたようだが、この日はモーツァルトとコンスタンチェの寝室バラード'愛していればお互いを知ることができる'がより一層強くなりました。 これもまた、そのままさらっとしたバラードですが、シア・ジュンス式の粘性のあるバラードに変わっていたんですよ。 この日はその程度がより一層激しくなりました。 ところでこの日モーツァルトの独白のセリフは、また'自然人モード'のせたようです。 コミカルな性格をそっと帯びる部分であるからそれでも関係ないです(彼はコミカルな部分では、'自然人シア・ジュンス モード'が最も強力だという事実を感づいたでしょうか). そうするうちに瞬間的に飛び出してくる歌は、とても強力でその対比にびっくりしました。

*′なぜ私を愛してくれないのですか'を歌いながら、シア・ジュンスの声が一度狂いが生じます。 いや、二回程度狂いが生じました。 劇高音部でもなかったのですが。 シア・ジュンスは裏声が今やかなり回復して、'私の運命から逃れたい'の絶頂部アドリブを初めの週の裏声で処理していたし、カーテンコールの'私は私は音楽'でも裏声アドリブをまたしていました。 ところで瞬間、'今日この人、地声の声は簡単に出てきたのではないんだな'という思いが突然しました。 事実この公演を前にして、'シア・ジュンスももう気楽に行くんじゃないかな’という考えをしばらくしました。 ただなんとなく思ったんですけれども-その考えが巨大な手の平になって帰ってきて私のほおを殴ったのです。 私が分からない間に、あの人はまた、無尽蔵自分の声と戦っていたんだなあと思ってです。

* 振り返ってみれば、シア・ジュンスは変声期以後今までただ一度も自身の声との戦いを中断したことがなかった人でしょう。 私たちがこのようにこの人のデビューミュージカルを取りまとめてみるのは、もちろんこの人ボーカルのためです。 自身との戦いを激しくしたり、努力をたくさんするという理由ために私たちが歌手の公演を見たりしません。 ひたすらその結果を見ます。 だが、それにもかかわらず、私たちには明確に、舞台の上でただ一度も勝負師であることをやめたことのない彼の姿勢に対する畏敬心が存在します。 それを私たちはいつも忘れるが、彼はいつもその事実を再び私たちに悟らせます。

*ところでこのような考えとは別個で、13日2回目の'なぜ私を愛さないのですか'という前公演をあわせて、最も美しくてすさまじいバージョンでした。 やはり自然に涙の海になる劇場の中. なかなか泣かないが、この日は私も涙が溢れでたのですこの頃のミュージカル モーツァルト!にはそんなことをよく誘発させます。 来られる方々、注意するように。 ところで泣く渦中にも、10日この曲に現れて私たちをうれしくさせたシア・ジュンスのまさにその新しい声が、再び再登場して、今回はさらに拡張された形態で曲の中心をなすのを聞いて、快哉を呼んでいました。

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ピファニアレビュー 三つ巴戦の中モーツァルト
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